vol.008 旅の計画 (2) ヒッピーなインド
1970年の関西にはインドに旅行に詳しい人などほとんどいません。いたとしても数は多くないので探すのが一苦労です。その当時の東京ではどうだったかは知りませんが、関西よりはましだったんではないかと想像します。人口は多いし情報は集まってくるわけですから。
だいたいがこの頃のインドは、お寺の坊さんが行くところのイメージが強く、インドに関する本も佛教を中心とした線香臭いものでした。
あるいは未開な国の神秘な世界、いわゆるナショナルジオグラフィックの世界か文化人類学あるいは社会学のフィールド調査の対象の世界でした。河口慧海の時代を引きずった古い世界と、標本づくりを基本とする学問の世界の両極端しか有りません。
ところが私達の前に吹いたインドの風はアメリカのウェストコーストからのものでした。
19世紀後半の北米大陸、その鉄道網の完成とともに現れた「ホーボー」それらを文学で表現した、ジャック、ケルレアック・詩人のアレン・ギンズバーグ、禅に傾倒したジェフ、ライダー。
1960年代初頭サンフランシスコのノース・ビーチに住み着いていたビートニックが世俗化を嫌ってヘイト・アシュベリーに集まり始めます。それは65年以降頂点を迎えます。ここにサイケデリ
ックの花が開き始めます。音楽も、ジャズ、フォークからロックへ、 ヒップからヒッピーへ時代は変わってきます。そして、この「ヘイ
ト・アシュベリー」地区にすむものたちのライフスタイルを信奉する一群の人達を総称してフラワーチルドレンとアメリカのメディアは呼びました。
フラワーチルドレンからの風は日本にもかすかではありますが、届いていたのです。フラワーチルドレンの前段階のビートニックのことについては、東海岸のビートニックを小田実が「何でも見てやろう」で紹介しました。
決定的だったのはビートルズの1967年6月の「サージェント・ペパー・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」 のリリースでした。
日本でも訳がわからんうちに、サイケの風が吹き荒れました。もっとも、ちょっとアメリカかぶれの芸術家風の人達がたくさんの派手な色を使ったポップな絵を紹介した程度にしか日本では注目されませんでした。その根本のドラッグの文化など日本ではとんでもないことでしたから、最終作品のポップな絵くらいしか日本では紹介できなかったわけです。
私は、ビートニックなインドより、ヒッピーなインドにあこがれました。それはお伊勢参りの流れの日本の観光旅行とも、奥の細道の松尾芭蕉の枯れ野とも違った、ホーボーなインドであらねばなりませんでした。この当時インドへ出かけていった連中は大なり小な
りフラワーチルドレンの申し子ヒッピーに影響されてます。
とまあ、ご託を並べたのですが、本当のこといえば当時こんな事考えてインドへ行ったわけではありません。歴史の背景を語ればこんなものかな、ということで、実際はあの有名なイギリスのロックグループ「ビートルズ」も興味を持ってるインドはヨーロッパより面白いのではないか、ヒッピーなる哲学持った連中もたまってるみたいだから行ってみるか、小田実も薦めてるし、という程度でした。
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