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トラベルメイトトラベルメイト98

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「トラベルメイト98」
  1. 【 旅行者(8) 】


  2.  この年(82年)の夏のシーズン「中国自由旅行」は見事こけました。結局中国に行ってくれた人は東京や地方の支店を含めてせいぜい30人くらい、これなら今までの顧客名簿にDMした数とほとんど変わりません。広告とか他の営業活動がことごとく無駄足に終わりました。9月になって夏のピークも一段落したので私も中国自由旅行としゃれ込みました。やはりどんな詳しいデーターがあっても、良い写真があっても自分の体験がなくては熱く語れません。

     本当は、誰よりも早く中国に行ってみたかっただけです。一人、また一人とお客さんが中国自由旅行へ出発するのは、身を切られるようにつらかったです。いち早く情報をつかんだのは俺だぜ、金払った客とはいえ何で俺より早く中国へ、しかも自由旅行するのかよ!たくさん旅行に行ってほしい、でも俺よりあとにして、この問題を解決するには自分で行くしかありませんでした。

     実はこの頃、南インドのさる州の公的機関とキャンペーンを張ってがんばろうかという話もあって、9月に旅行に行くのはかなりまずかったのですが、現地の代理人に連絡したらまだ州政府のお役人そちらへ行く予定はないので9月はとりあえずあんた日本にいなくて良いよということだったので出発することにしました。

      実際はこの決定がとんでもないことになってしまいます。上海から旅行途中で緊急に帰る羽目になりますが。で、帰国したときには時期すでに遅く、御役人一行は3日前に日本へ到着済みでした。あとで聞いたところ、私が成田で車で出迎えて東京のホテルまで案内することになってたらしく、ご一行さんざん待ったあげく「森脇はどうした、森脇は」とカンナダ語と、英語で文句を言い続けてた様です。私はどうもこうもありません。三峡下りの船の中です。武漢についた頃かもしれません。おかげで武漢から上海経由大阪まで飛行機の切符を新たに購入することになりました。(上海も数時間しかこのとき滞在できなかったのです)そのとき人民元は確か、1RMB=¥130位だったように思います。東京まで切符買いたかったのですがお金の手持ちがありません。泣く泣く大阪へ飛びました。あと手持ちは数百円、やっと大阪事務所へ駆け込んで2万円を借りて東京へ新幹線で駆け込みました。

     まってたテレックスは(この頃はFAXなんてしゃれたものはありません)、インドの代理人からで、「すまんあんたが東京にいないのを忘れておった、お役人一行はもう奈良方面に行ってる、非常にあんたを怒ってるらしいから今連絡とるのはまずい」このインドの話ポシャリました。私なんも悪くないのにね!

     おっとまた脇道にずれました。本筋の話に戻ります。旅行から帰ったところでちょっと考えました。どうやっても、一般の普通と言われる人達のレベルまで話しが行かない、一般紙の広告はお金がかかりすぎるし、お金があっても出させてはくれません。取材もなし。

    知り合いのメディアの連中にも連絡とったのですが、「早すぎる」とか「日本でまだビザがとれないのなら半分非合法なので記事には出来ない」とか、いくら何人も旅行に行っていて、香港は華僑のコネでビザが簡単に合法的にとれるからと言っても、「もうちょっと待って、時期が来れば大丈夫だから」。時期が来れば、中国自由旅行など一般的な話になって面白くもなんともないことになってるでしょうし、他の旅行会社も手がけるだろうし、特に安全に旅行できるとわかれば大手がでてくるだろうし、困ってしまいました。

     かえって腰が軽くて、フットワークが早かったのは、その筋っぽい人達でした。10月以降月一回は開いてた「中国自由旅行説明会」は少しずつ聴衆は増えてきました。私たちの熱の入れ具合も違います。もう私より中国自由旅行は後の人達ですですから(ほんの数ヶ月ですけど私が先なことには違いがありません)、モストウェルカムです。ある時期から、聴衆の中に2人ほど、グレーに地味なスーツにネクタイ髪は短くきちんと整髪、決して笑わず、連絡先も参加者ノートに書かない不気味な人が混じるようになりました。一言で言えば、マジな東洋人のMIB(メンインブラック)の感じです。

    なかなか本題に帰れません。もうちょっとおつき合いを!

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