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入門講座理論編ー(42)
ここでは実際に、1980年代前半の中国自由旅行に関しての、具体的旅行者 の分類を当てはめてみました。ここで「金剛石偉大社」とあるのは、英語に訳すと「金剛石=ダイヤモンド、偉大=ビッグ」つまりダイヤモンドビック社をシャレで漢字に置き換えてみただけです。
<旅行者の分類−2>
中国旅行に関しては、先頭の十人の旅行者の一人からデータを受け取りました。そして90人の旅行者(狭い意味での)予備軍へ伝えました。彼らは、自分たちのテリトリーと世界を持ってますから、情報が私たちからでたとしても、私たちの会社を使うわけではありません。最初ぽつりぽつりしか中国旅行に行かなかったのはそのためです。ちょっとした情報だけあれば、私たちと同じような中国自由旅行が手配できるように直ぐなれる旅行会社は何軒もあります。彼らは自分がよく使って気心が知れている旅行会社へその情報と主に手配を頼むでしょう。 多分時差は、4ヶ月と言うところです。
私たち独自の説明会に参加しはじめた人たちは、900人に属するマニアの人たちです。月に何件か出始めた「中国自由旅行者」はこの人たちです。この人たちが一気に増えるのではないかと甘い期待を抱きましたが、増えるはずはありません。「マニア」ですから。この辺りの人たちまでは、手配を頼む会社がどういう筋のどういう大きさかは、一応聞きますけどもリスクをあまりおそれません。おもしろさ目新しさは、リスクとコストと時間の固まりだということをよく理解してるか らです。
最初の頃「金剛石偉大社」のコースに申し込んできたのは「情報通の人たち」です。情報通ほどあってかなりラベルとか銘柄にこだわる人たちであります。それもちょっとマイナーなものが好みです、あまりマイナーすぎると7000人が理解できませんから。(当時は個人旅行自体があまり市民権を得てはいませんでしたので、ダイヤモンドビック社さえマイナーっぽいメジャーであったのです、「地球の歩き方」もまだ中国編でシリーズ4冊目でしたから)その人たちが100人とか200人とか300人とか。
この人たちは、危なそうなグレーゾーンの時は手を出しません。だから私たちが必死になって、写真を見せたり実際に旅行した人の現地からのはがきを見せても、在日中国大使館とか、大手代理店が中国国内、自由旅行等まだできませんというと申し込みはしません。一応カウンターまで確かめに来たとしてもです。ところがいったん「金剛石偉大社」のラベルが貼られたら、「中国自由旅行」は表街道のグレーゾーンで、危なさはなくなり最も「情報通」の好む商品に転化したわけです。
参加人数が、1000人を越えるようになってくると、参加者の層は「情報通」の人たちに引っ張られた普通の人たちになっていきます。この人たちは「中国自由旅行」に参加したわけですから、自分たちは「マニア」ではないけども、少なくとも「情報通」ではあると思っています。
「情報通」の人は多分自分たちが「マニア」かマニアに近い位置にいると思っています。マニアは、旅行者予備軍に入ってるか、入りたいと思っています。「旅行者予備軍」は「旅行者」だと思い込んでる人が多いようです。実際、瞬間的には旅行者になったりする人も多いわけで、「旅行者」と「旅行者予備軍」にはかなりの偶然が左右しますから、見方によっては判断しかねることもあるのです。
(補足)
HIS−今は格安航空券屋の最大手になってますが−の沢田氏が、ダイヤモンド社の(ダイヤモンドビック社ではなく経済書専門の方)本で中国への自由旅行はHISが開発、中国への個人旅行者が急激に増えた故のことを書いていますが、何を勘違いしてあの文章になっているのかよく解りません。
彼らが中国自由旅行を始めたのは私たちが始めてから3年後、ダイヤモンドビック社と私たちの共同企画が始まって2年後です。何故解るかって?あの当時日本から頼んで、香港で中国ビザと、シンセンまで鉄道の切符、シンセンのホテル一泊等の面倒な手配大量に請け負ってくれる会社は一社しかなかったからです。
私らが依頼初めて2年目くらいでした、HISの客が同じホテルのロビーにぼちぼち集合しだしたのが。つまりHISも同じ会社に中国の手配頼み始めたのです。日本人担当者は一人でしたから、HISの客の動向はよく解りました。ピークシーズンは私らが多いとき一日80人、HISが10人というところだったでしょうか。
インドの個人旅行も、HISよりは5年は早かったでしょうか。商売人としては勝てなかったですが、新しい目的地開発した点ではいつも彼らより数年は早かったです。うまく軌道に乗り始め、その目的地への人数が増えてくると、すぐ沢田氏は2,3千円安く商品を出す方法でマーケットをおさえ始めました。
私たちは、軌道に乗り始めた目的地よりまだマニアックな場所を求めて商品開発始めましたので、開発費回収できるはずありません。しかも大手でなく零細ブローカーでしたから(ま、HISも80年初期には似たようなものでしたが)金の面からじり貧人生が始まりました。やってたことも結果もおもしろかったことは確かですが。
ベトナムとか、ミャンマー(昔はビルマといいました)、北朝鮮、モンゴル砂漠横断オフロードバイクの旅など。
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