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入門講座理論編ー(24)
密林の聖者「シュバイツァー」とか、カルカッタの聖母「マザーテレサ」等を生んだ西洋文化(といっても具体的に西洋などという物はどこにも存在しなかったのですが)に比べ、日本の社会とか文化の国際性のなさと冷たさを強調する論調を日本出発前は、私たち鵜呑みにしていました。
日本は遅れている、お金ができても人を積極的に助けることができない社会だそういう拝金主義を断ち切らねばとやはり思ってしまいます。具体例出してそういわれれば、なんと私たち駄目な国民だろうと自己嫌悪に陥るしか有りませんでした。
旅行を続けていくうち、何か違うぜそう思うようになりました。博愛主義の固まりのような人を生んだのが進化した西洋文化なら日常生活の中でもその文化はルールの平等な適用があるはずです。日本で持っていたイメージとそう違わないはずです。
日々の体験は日本でもっていた西洋のイメージを覆すことが多かったのです。何だ日本とあまり変わらないじゃん。有色人種への偏見、無視、は当然のようにありましたがもっと驚いたことに、北欧の国同士でもたとえが悪いのですが、日本が韓国差別するような同じ事があったのです。
うむこれは何なんだと頭抱え込んでしまいました。日本で持っていたようなイメージでもない、しかしどこか突き抜けたような青空のような開放感はある。旅行中で何の責任も期待もされてない身分であるという開放感も確かにあったのですが、それだけでもありません。
ヒントは彼らの育ってきた社会とか時代背景にありました。日本などより優れた博愛主義の文化があったからと結論づけることももちろんできましたが日常の私たちの体験からそう断定はできなかったのです。
もっと簡単に考えた方が良かったのです。「シュバイツァー」はヨーロッパ諸国の植民地の悪行に対してのアンチテーゼとして生まれてきた物ではないだろうか、「マザーテレサ」は東ヨーロッパの戦乱の中の地獄からの、人間の行為と生活へのポジティブな思考からカルカッタのスラムへ向かったのではないだろうか。
別のたとえで言えば、外科手術が格段の進歩遂げるときにはその前に必ず大きな戦争があった。平和なときにはない、とんでもないことが日常的に必ず起こり医者も患者も生死の境界線上を毎日歩いていれば、数十倍の速度で外科の手術が進歩するのは当たり前のことです。
聖者と聖母を生む社会というのは、それが必要とされるからですが、必要とされるということは逆の悪とかとんでもないことは数多く起こっている社会と言うことでしょう。俗な言葉で言えば「百戦錬磨」の必要な社会です。
私たちが感じた開放感というのは、そこがハイテンションで物とか人間が動き出し、あちこちでガンガンぶつかり合いが生じてるか、かって生じてた世界の大変隙間の多い、コンクリートではない石垣積みの護岸壁のある川のような社会だったからです。特にアムステルダムがそうでした。
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