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入門講座理論編ー(9)
こういう状況から思えば、1980年に入ってから本格的に海外個人旅行に出かけ始めた「蔵前仁一」とか「下川裕治」が海外個人旅行者がまだほんの少数の時に自分たちは旅行に出かけたと誤解しているのも納得できます。80年代はじめなど実際はあちこちで海外プータロウがうろうろしていた頃です。でも、一般メディアにはその姿がほとんど見えてない頃ですから。
ならば、小林紀晴はどうかというと、この方は1990年に入ってからの人ですから、どうにも弁護のしようがないというか、1990年には1000万人越えてますから、海外渡航者の数が!
この時代にバンコックの空港で熱帯の人達の姿に恐怖するなど、なに考えてんの、しかも原因は自分の準備不足、意図的なのか仕方なくそうなったのかは別として初日に泊まるホテルの情報さえ持ってきてない。沢木耕太郎の「深夜特急」で香港のホテルへ行くシーンで同じようなことが書いてあったように思いますが17、8年もたって同じ事繰り返すとは。
今はもう一般メディアでも、「ふれあいの、個人一人旅」は大流行です。この考え方は個性的でも少数派でも現実的な物でもありません。成田でも関西空港でも出発前でも帰国した人にでも、どんな旅が良いか聞いたとしたら、過半数が「自分で作った、ふれあいの一人旅あるいは個人旅」というでしょう。
どうでしょう、ほとんどの旅行作家と呼ばれる人たちが薦めてきた考えが本当は社会一般にやっと認められたそうは目新しい考えではなく、主張する本人達は個性的で少数派の現実の考えだと思っているだけで、本当はほとんどの人の最大公約数の意見(一般紙の新聞とかNHKでもとりあげられる意見と言っても良いです)であるとおわかりいただけましたでしょうか。 1960年代、1970年代の扱いが嘘のようです。こういうときには、海外個人旅行が市民権を得たとでも表現するのでしょうが、なーんだか市民権等という言葉ここで使いたくない心境です。
60年代、70年代はパッケージ旅行が世の中に認められた7号の旅行であり個人自由旅行は犯罪にもつながる、あちこちに迷惑掛けまくっている決しておすすめできない、不法に近い不良行為だったのです。この時代なら、「ふれあい一人旅」擁護理論は個性的であり得ました。
今はメディアの中でこれらの価値観逆転して個人自由旅行がすべての人にお勧めできるものであり、パッケージ旅行は不法ではないにせよ、特にブランドのショッピングだけして帰国するような行為は国賊に近い恥ずかしいものとされてます。本当に勝手ですな。
今では何でもない「格安航空券」の宣伝、リクルートのABロードを中心に日経新聞の本紙の中にもでるくらいになっていますが、当初ブローカーの扱うグレーゾーンの商品だったため、新聞雑誌類いっさい宣伝受けてくれませんでした。このあたりのことは、日本海外旅行史とか航空券などの項で詳しく書いてあります。
グレーゾーンといっても、別に反社会的な詐欺商品を売っていたわけではなく日本の運輸観光行政が、日本の経済発展に伴う大衆海外旅行時代に付いて行ききれなくて、航空券のみの実勢価格での販売が法律の範疇にないとされた時代でした。ですから、このころの運輸省は自由旅行、個人旅行の発展には必須の「格安航空券」には「取り締まり」の論理で対応してました。要するに、新しい芽生えを育て上げるどころか、上から塩水をかけ続けていたようなものです。
このころの運輸省が作ったと言われる取り締まりのリストが手元にありますがまあいろんな会社と代表者の名前が載ってること。日本国際学生連盟(JISU)でさえ、要チェックの対象のしかもリストの一番上に載っています。
これらにもめげずブローカーは生き残って、格安航空券はますます一般的になっていくのですがそれに、メディアまたはメディアの人たちは後押ししてくれたかというと、貢献度ゼロとは言わないですが客観報道という奴で、「格安航空券」が勝ち馬になる時まで後押しはありませんでした。
何度も言うようですが、業界紙とかそれなりのところは後押しとまでは行かないけど自由に広告くらいは出してくれたとこもありました。その中で唯一一般紙といえるのが英字新聞の「JAPANTIMES」です。
やっぱ、それなりに皆お金が稼げる時代になってくると、おもしろい事したくなるし海外にも簡単に出かけられるようになってきます。ハードの部分は1970年はじめ頃にはなんとか、20万か30万あればちょっとは海外旅行に出かけられるようになってきます。
この金額は学生なら、生活しながらのアルバイトならちょっとハードに半年、一般日雇い重労働なら3ヶ月で何とかなる金額でした。ならソフトの部分はどうだったのでしょう。小田実の「なんでも見てやろう」はバイブル的な存在でほとんどの人が読んで出かけたのですが、いかんせんフルブライト留学生の旅行の話なので、一般ピープルが旅行のガイドとして使うにはちょっと現実から離れすぎていました。
実践として使えるガイドブックはほとんど80年初頭まで出版されませんでした。(海外無銭旅行冒険体験記的なものは渋めの出版社より少しづつ細々とでてはいました)マニアックな人たち対象の機関誌がその空白期間を埋めたのです。
このあたりは、「昔の旅行者」に詳しくでています。1964年からの「WORLD」1976年からの「オデッセイ」。「WORLD」が東京に移動してできた「海外旅行研究会」。これら運営する人たちは、身銭切って活動続けたのです。商業メディアの人たちはどうしていたかというと個人旅行物に関してはそりゃー冷たいものでした。商売にならないという理由で、時期が来るまで派手な動きいっさいなしです。
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