「旅行記」
トラベルメイト
監修・編集

リロとハツキの自転車旅行

 

VOL.42 インド(40)  葉月が衝突、転倒!(理路)

二月二三日、私たちは、一一〇万の人間がうごめく大都市マドゥライへ向かった。スリビリプタールからマドゥライまでは、約七五キロの行程だ。町に近づくにつれ交通量はどんどん増え、私たちは半分も行かないうちに、行く手を往来にはばまれた。路肩を埋める人の列。路地からわいてでてくる自転車。大きな荷車を引く牛。渋滞してクラクションをけたたましく鳴らす乗用車のアンバサダー。荷物を積みすぎて片方が傾いたトラック。その間をやせこけた犬が、おびえた目付きでさまよっている。道を横断しようとする歩行者が、目の前に次々とあらわれ、道の中央に立ち止まって渡るタイミングをはかっている。道路にはもちろん信号機などなく、また往来が完全に途切れることもない。道を渡る人は、車や自転車の流れをみながら、そのすきまを縫うようにして、ゆっくり横断している。  

その時、前方で、小さな子どもの手を引いた母親とその家族が、道を渡ろうとしていた。家族があと数メートルで、道を渡り終えようとしているとき、私たちの自転車がちょうど通りがかった。母親と子どもを抱いた父親は私たちが通過するのを待つ。しかしアクシデントはその時起こった。母に連れられた三才くらいの子どもが、待ちきれず親の手を振りほどいて飛び出したのだ。
(うわっあぶない!後の自転車がぶつかる!)
その時先頭を走っていた私は、バックミラーにくぎづけになった。ハンドルにつけられた小さな鏡の中には、後続の自転車が路面に崩れ落ちる様子が、スローモーションのように映し出された。転倒したのは、後ろを走っていた葉月だ。私と最後尾を走っていたパトリックが同時に現場にかけつけた。子どもが大声でないている。

「なぜ子どもの手をはなしたんだ!」

パトリックが子どもの両親に向かって、強い調子で責めたてた。葉月は、真横からとびだしてきた子どもを避けようとして急ハンドルをきって転倒し、前へなげだされた格好だ。子どもは通過する自転車の前輪付近にとびこんだと思われる。

「だいじょうぶか。」
「うん、急に飛び込んでくるんだもん、まいったよ」

葉月はそう言って立ち上がった。子どもは大声で泣いていたが、外傷はみあたらない。
(やれやれ二人ともたいしたことなくて、よかった)
私はひとまずほっとした。  

パトリックはなおも両親に強く抗議している。言葉は通じないが、相手も次第に反論しはじめた。日頃、紳士的で温厚なパトリックの威圧的ともいえる厳しい態度に私は一瞬とまどった。
(そこまで強くいわなくてもいいんじゃないのかな?起きてしまったことはしかたがないさ。子どもの手をしっかり握っていなかった親が悪いが、かれらも子どもが傷つくのを望んでいたわけではないだろう。とりあえず、大事にいたらずにすんでよかった。ここで両親に責任を追求したところで、どうなるものでもないだろう)
これがその時の私のいつわらざる心境だ。しかし、考えてみると何とあいまいで無責任な判断だろう。  

私はウドゥピーに行く途中、向こうからきた自転車の少年が右折しようとして私にぶつかってきた日の事を思わずにはいられなかった。あの時はどうしただろう。
(バカヤローどこみてるんだ)
ぶつけられた瞬間、私は彼に強い憤りをおぼえたのを覚えている。しかし私が少年を問いただした時、彼が自ら事故を起こした事を本人が自覚しているようにはどうしてもみえなかった。

(なんてこった!)
そのとき、私は腹立たしい気持ちを治める事ができないまま、野次馬の群れから脱出した。こちらの意思を相手に理解してもらうには、両者に共通の認識が必要だと私は考えていた。ここでは少年が加害者であり私が被害者であるという事実だ。しかしあの時、私はそれすら確認できなかったので、自分の怒りを相手にぶつける事ができなかった。

冷静になって改めて考えてみると、私はパトリックの態度が正しいのではないかと思えてきた。腹がたったときは素直に怒りを現すべきだ。言葉が通じないからといって感情まで飲みこんでしまっては、相手にも気味の悪い外国人としか思われないだろう。ただし感情をぶつけて暴力沙汰になってはまずい。いくら自分の主張が正しくても、群衆の怒りを触発するようなことをするのは絶対にさけるべきだ。パトリックはケララ州で一〇人以上のインド人を相手に大喧嘩をやらかしている。いい年をした文学博士の血気盛んな行動に私は感心してしまう。  

後ろを振り返ると、まずいことに、見物の人垣が二重三重とふくれあがって道路をふさいでいる。パトリックが突然叫んだ。

「ハツキいくぞ!行くんだっ!」

私ははじかれたように自転車にまたがり、相当なスピードでその場からはなれた。バックミラーにはしっかりついてくる三人の姿が映っている。  

やがて現場は遥か後方に遠ざかり、周囲は何事もなかったかのようにいつもの喧噪に包まれた。しばらくしてパトリックが葉月の横につけていった。

「さっきは手荒なことをいってすまなかった。あれ以上あそこにいると危ないと思ったんだ」
「ううん、そんなこと気にしてないよ。それよりこどもが飛び出してきたんでほんとにびっくりしたよ」

葉月は興奮がまださめない様子だ。 過剰な愛情に遭遇した時、私の涙は止まらなくなってしまった。

次回へつづく


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