西イリアン
国民投票の後、政治的な弾圧が続き、ある仲間はジャングルに入ってゲリラ戦で抵抗し、ハーマン氏のような外国に顔が利く人は旧主国のオランダに亡命政権を作り、国連とか各国の支援グループとの交渉を続けていました。
ニューギニア特に彼らが独立を願っている地域は西半分の西イリアンと呼ばれる地域で、金、銀、コバルト、ニッケル、石油などの地下資源が豊富です。それ故インドネシアも手放したくないし複雑な国際間のバランスの中でがんじがらめになってしまったのです。熱帯雨林ですから材木の資源もあり、周りの海は漁業資源も豊富、開発次第によっては宝の島に変貌する可能性もあったのです。
島全体が全部熱帯ジャングルかというとそうでもなく、スカルテンツと呼ばれる5030mのピークもあり、これはボルネオのコタキナバルの4101mをゆうに1000mも越えています。「南の島に雪が降る」という映画はここの島の話です。熱帯でも5000m級の山なら雪も降ります。
ハーグ近辺には彼らのグループは30人くらいいましたこのグループとは妙にうまがあって、ハーマン氏と親しくなった後、飲み屋で飲むだけでなく、家に遊びに行ったりオランダ各地へドライブ行ったりしました。彼は、ワーゲンに乗ってましたから(例のカブトムシスタイルの)長距離出かけるときは、私らのフォードではなくなるべく彼のワーゲンを使わせてもらいました。私ら、次の旅行のため費用をためなければなりません。ガソリン代馬鹿になりませんから。
空手のアトラクションとか試合ある時は、このグループの誰かしら来てくれました。ハーマン氏と友人になってから変わったことと言えば、西イリアンに異常に詳しくなったことと、日本の政治家とか「右の」支援グループの人達の名前を覚えたことです。
70年代初期は「左」つまり左翼の人達は東ヨーロッパとかロシア(昔のソ連)アラブ諸国に興味はあったとしても、アジアのしかも旧オランダ領の西イリアンに興味持った人達はいませんでした。基本的に彼らは「ああ、インタナショナル」であっても、「民族の独立」のことは不得手です。ですから日本でのハーマン氏のコネクションは必然的に「右」の人達になるわけです。
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