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「トラベルメイト98」
  1. 【 旅行者(3) 】


  2.  旅行者(3)はちょっと長くなってしまいました。

     70年代初期の航空券はディスカウント(割引航空券−まだ格安航空券という言葉はポピュラーではありませんでした)は、怪しげな航空券ブローカーが売っている世界でした。まあ最も売ってる本人たちは自分たちを”怪しげ”だとは決して思いませんでしたが。

     この頃は今のように割引航空券を宣伝する媒体など、どこにもありません。団体パッケージ旅行だってまだまだ売れる余力がたくさんあるときですから、割引航空券を大ぴらに売る地盤はまだまだ未成熟だったのです。

     媒体として一番だったのは「ジャパンタイムス」でした。ここのトラベル欄は広告を出せば確実にお客さんが増えました。ただし大きな欠点がありました。それはかかってくる電話の半分以上が英語だたことです。

     私ら、一応英語教育は、中学三年間、高校三年間、大学四年間、計十年間習ってることになってますし確かに習いました。赤点ではなく何とか全てで卒業点を取ってきたつもりです。だけどみなさん結果はおわかりでしょう。よくわからんのです。広告を出して一ヶ月間くらいはちんぷんかんぷんでした。そのときまで、千の単位までは分かりますがそれ以上の万からの単位を英語でどう言っていいのか本当に知らなかったのです。

     必要なときには短期間で何とかなる物です。一ヶ月過ぎると航空券の料金と、オープンだとかフィックスの説明は最低限出来るようになりました。今まで東京とか大阪に住んでいながらあったこともないような人たちがお客で来るようになりました。外人旅行者はもちろん、大使館関係、外資系、中小の貿易会社の人、旅行マニア、カメラマンとかライターデザイナー等の横文字のフリーの職業の人たち。

     私たちにとって最初のお客さんはこういう人たちでした。日本全体から見たら少ない数なんでしょうが、実際その中で商売を始めるとそう小さなマーケットでもなかったのです。 そうそう、米軍関係者もかなりの数になりました。日本の空は民間の定期便以外に米軍の航空便が数多く飛んでおり、ほとんどの関係者の移動は日本の民間飛行場など使わずにすんでることも知りました。横田基地等から直接アメリカ本土とかハワイに飛行機が飛んでいたのです。

     かなりの便数が飛んではいたようですがちょっとバンコックへ行きたいとか香港へなどの場合は基地からの便は思い立ってすぐ利用というわけには行かなかったようで私たちの出番もかなりありました。

     あと宣伝を出せた媒体は、東京ウイークエンダー、無料の外人旅行者向けの英語パンフレット、これらは全部英語の媒体です。日本語の媒体はミニコミしか広告を出せなかったのです。普通の新聞社(規模の大小を問わず)などもってのほか、まず広告を出すお金がありません、もしお金があったとしても割引航空券の宣伝はまず出してくれません。(なんせグレーゾーンの商品ですから)。最初に広告を受けてくれたのが「宝島」、大阪の「プレイガイドジャーナル」、東京の「シティロ−ド」これら以外は、旅行業の登録番号はとか、航空券だけの宣伝は受けないけどパッケージなら受けますとかかなりうるさかったのです。そうですね、今で言えば「テレクラ」か「デートクラブ」の求人広告が掲載しにくいのと同程度としておきます。

     お金をこっちが出すと言っても広告さえ受けてくれない状況では、記事中にパッケージで旅行する人以外の事が好意的に書かれるはずはありません。旅行会社

    (1)で転載したような日経の記事は七〇年代初期には絶対あり得ませんでした。 通常は、最近ヨーロッパなどに無謀な無銭旅行の若者が増えて現地の大使館とか駐在員の人たちは困っているという論調の物が大部分でした。「斉藤さんは年に一度、旅先で自由になる」等という言葉は見たことがありません。

     ちょうど最近のアニメとか漫画の論調と一緒です。ほんの数年前までは、大人が電車で漫画を読んでいるのは日本だけだとか、漫画のため良書が圧迫され読書の習慣が減って皆の頭が幼児化してるとたくさんの「識者」とか「記者」の方がお書きになっていました。 今はどうです、日本のアニメは世界を征服しつつあるとか、日本の「オタク」文化は世界の若者の最先端だとか、うむ、耳の裏がかゆくなるような変わり様です。あの当時の識者はどこへ行ったのでしょう。

     たぶん、確実に変わったことが確認できない限り記事にしたり、ルポを載せたりすることはしてはいけないという「記事の客観性」を保つための一般メディア(カルトな所とか、マニアックなところ以外のという意味での一般)のポリシーを守っただけなのでしょうが。 それ以上に、集英社の「少年ジャンプ」講談社の「少年マガジン」小学館の「少年サンデー」に代表される漫画、アニメの売り上げの額のすごさとその中で表現される才能のすごさ、を無視しきれなくなったというのが本音だと思います。派手な売れ行きがない純文学の機関誌とか雑誌、単行本も結局は漫画本の黒字があるため会社全体ではやっていけるという単純な事実に気づいただけなのかもしれません。

     旅行者に関しては、もうパイオニアの時代ではなくなった1972年のころもまだ一般メディアは、個人旅行者に対しては冷淡でした。いろいろな企画とかイベントを新聞、TVに持ち込みましたが何の反応もありません。(最も、私たち自身がある程度の水準を満たしてなかったこともあるのでしょうが)

     やっと取り上げてくれたのが、近畿放送(関西地区のUHF放送局)のお昼の奥様番組、それでも30分くらいもらえました。74年か75年くらいだったように思います。内容は、「インド旅行はもう安全」だったか「インド旅行は面白い」だったかそんな感じの物でした。友人たちに言わせると割と良くできていたそうです。残念ながら生放送のため、自分では放送の内容は見てないのです。当時ビデオもありませんでしたし。

     この企画も、インドという国がタイムリーだったり、私たちの企画が優れていたから放映されたのではありません。たまたまネタがないときで、先輩のコネで放送局の人に話がついただけのことでした。「すすめ電波少年」の「猿岩石ユーラシア大陸ヒッチハイクの企画」など、まだこの時期は一千%も不可能です。でも実際やろうと思えばこの当時でも簡単に出来た企画です。不可能だった理由は、時代に全然追いつけない足しか持ってない一般メディアの中にいる人達自身だったのです。  

     私だけでもまだまだあります。フジTVの「ひらけポンキッキ」、ガチャピン、ムックをインドへつれていって、ラクダの競り市に参加させる企画。ほとんど成功しそうでした。出発3週間前、突然TV製作のお偉いサンからストップ。理由ははっきり分かりません。子供番組にインドは早すぎるとか、予算がないとか。

     貧困と病気の巣窟みたいに思われていた、インド亜大陸を子供番組の中で楽しく取り上げるのは、すごくタイムリーだと思ったのですが。うむ、だめでした。1970年代後半の話です。

     本当に最近です、あちこちの新聞、雑誌に、一人旅の斉藤さん1、斉藤さん2から、斉藤さん38くらいが出始めたのは。新聞も一般紙、大手TV局、は非常に臆病なメディアです。雑誌はまだ2年くらいはそれらより早いかもしれません。案外、少年漫画のグラビアの特集がかなり世の中の動きについていったりしてることもあります。

     新聞の中でも日経新聞は、世の動きにまだ遅れながらも背中が見える位置にいます。もっと前に行ってみたければ、日経産業とか日経流通の方がましでしょう。三大一般紙と呼ばれる物しか参考にしないとしたら、もう終わってしまった遺跡とか博物館の説明をしてもらっているような物です。病気に感染したり泥棒にあったりの現実感はない代わり、評価の定まりつつある干物をたくさん安全にみられます。

     あちこちの新聞に載り始めた「斉藤さん1」、この人などたぶん数ヶ月前にほかの新聞で読んだ「鈴木さん3」の受け売りかもしれません。「鈴木さん3」は、「内藤さん5」の受け売りかもしれません。いずれにせよ、新聞で認知され始めた「一人旅旅行者斉藤さん1号」はもう、干物なのです。 「北斗の拳」風に言えば「おまえはもう干からびている」!

     新聞さえ見ない、雑誌さえ見ない、TVのみ見る、あるいはTVも見ない、でもマニアック、逆にこういう人が世の中の動きに乗っていたりするかもしれません。

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