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トラベルメイトトラベルメイト95

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「トラベルメイト95」
  1. 【何故「十二万円で世界を歩く」がよくないのかのまとめ】

     いままでの話で大体解るとは思いますが、あまりにもあちこち飛んだ話をしすぎましたのでいったんまとめておきます。
    まず目立つのが本の帯の部分の「なんてリッチな貧乏旅行、リピーターにも初めての人にも」。

     このような旅行はリピーター(くり返し海外旅行に出かける人)にはそうつらくなく、日程は消化できるでしょう、予算も毎年上がっている物価と諸処の条件をプラスすれば大体同じような感じでいけるとは思います。でも大前提としてなんでこんな旅行をしなければいけないのでしょう、あるいはした方がいいのでしょう。

     十二万円という予算を限定して各地を早回りしてどうするのでしょう。前書きにも出てくる「その国の暮らしを目と口と体で知る」為には、沢山の時間が必要ではないでしょうか。それを、バスターミナルとか空港港を転々として観光地も満足に行く時間なしで暮らしぶりが体で解ったなどと言えるのでしょうか。

     はっきり言ってこの本は、お仕事の本です。安く効率的に短期間で倒れない程度の物を食ってなるべく沢山の都市とか国を回る。まさしく五〇年代から七〇年代前半の日本のビジネスマンはそうでした。金もないコネもない従って滞在できる時間もない、売る物さえ品質はおろか名前さえない状態での輸出を始めたときの雰囲気ぴったりです。いまは九〇年代です、いくらバブルがはじけたと言っても日本円はまだまだ強いです。

     そんな中で、十二万円に限定した予算で世界を歩かなくてはならないんでしょうか、例えば一回二回の貧乏旅行と称する物をガイドブックの中のエピソードで取り上げる分にはまだまだしゃれで済まされます。この本は一九八八年の六月から一九八九年の十二月まで十二回にわたって行われています。結論は「ガイドブックの載っているような有名な観光地を回らずに、なおかつ金をかけない旅をすればその国の人々の本当の素顔や暮らしぶりを体験でき、そのような旅行が本当の旅行だ」

     ぜーんぶうそです。下川氏の経歴をちょっと見てみますと一九七八年ころが最初の海外旅行のようです、この時から一九八八年まで十年近く経っています、そのあいだに彼は何回海外旅行に出かけていったのでしょう。もうかなりなれたベテランの海外取材もできるライターになっていたはずです。だから逆に、一カ月おきの「十二万円の旅」の取材ができたんではないかと思います。初心者にこんな旅ができると思いますか、リピーターでも半端なリピーターではできませんでしょう。

     十年のうち少なくとも二十回以上は海外旅行に彼は出かけたことと思います、その蓄積があって別に観光地を回らなくともそれなりに旅行を楽しむすべを手に入れていることと思います。

     日本の国内旅行でも山歩きを始めたころは野生の猿が道に出てきているだけでフイルム二本くらい使いませんでしたか。何回もあちこちの山に登っているうち猿にもなれ二〜三年で、フイルム一本どころか、一枚も写真を撮らなくなるのと同じ事です。

     これを最初から猿なんて初心者のあなたは解らないでしょうけども日本のちょっとした山ならどこにでもいますからフイルムを撮っても無駄ですと言うような物です。それは最終的には誰でもそうなっていくという事は正しいことであっても、みんなフイルムを二本なり三本なりとる時期を過ぎなければなれてこないと言うことを忘れています。観光地は観光旅行の基本です、それは団体でなく個人で出かけていったとしても観光地を回らない観光旅行は文字通りあり得ません。

     「十二万円の旅」がめざす物は単なる観光旅行ではありませんと言う意見が出そうですね。じゃこの旅行の取材のようにお仕事で行くべきなんでしょうか?

     そうじゃない、観光旅行は否定はしないけど、物見遊山の旅行ではないその国の人の素顔や暮らしぶりを体験する旅行の方がいいと薦めているだけだ、そのためにはお金を使う必要はない貧乏旅行の方がかえって良い旅ができる。だから前書きの最後に「金をかけない旅でなければ見えない物がある」と書いておいたではないか!と来そうです。多分この本の読者も含め、この本は悪くはないと思ってる人はこの手で来ると思います。

     実際十二万円のみで初心者が、あるいは旅行者の大多数をしめる中級までの年に多くて二回それも休みが取れるのはピークシーズンのみという人にここに書かれているような旅行がすいすいできますでしょうか。

     ほとんどの旅行者が自分はどう思っているかは別として観光旅行しかできませんでしょう。つまり個人的な遊びの旅行です。現地で観光地に行かないようにしたとしても、安食堂と安宿しか利用しなかったとしても、日本を出てもう早や三年が経ってホーボー回ってホーボー臭くなったとしてもどこかからお金が出て仕事をやり遂げなければいけない物がない限り個人的な「お遊び」です。そしてこの様な目的がないか、または目的がなんとでも取れるユニバーサル型の観光旅行は一番贅沢な物です。

     だって考えてもみなさい、純粋に消費活動が海外でできるんですよ、これ以上贅沢はありませんでしょう。しかも現地で体験したこととか見たこと、食事の種類から価格、ホテルの写真からレストランの場所を純粋に個人的に楽しむためだけに使えるわけです。何月何日までに感じたことを原稿用紙で二十枚送れとか、写真を四点適当に見繕ってくれとかは誰も言わないのです。
    言われない代わりにお金がかかります自分で払わなければいけないのです。

     楽しいことをするには、遊ぶには半端ではないお金がかかります。皆さん誰でも一つくらいはマニアックな楽しみはありますでしょう、多分小さなころからそれは続いていると思います。バイクが好きなら食事時間と食事の予算を削ってもバイクをいじりたいでしょう。ゲームが好きな人はゲームセンターだけでは飽きたらずゲームのボードまで集め始める人だっていますでしょう。ヌイグルミが好きな人は一個三百万円のアンティークの物だって欲しいでしょう。

     旅行は遊びの中でも最も贅沢な遊びの中に入ります。バーチャルリアリティの世界でなく、本物のリアリティの中で旅行を続ける物ですから。その中でもお金を使わないで旅行するのは本当に難しいことです。個人的遊びの旅行で、貧乏旅行がすいすいできるのは上級者の中でも上中級者とでも呼べるレベルの高い人達しかできないことなのです。この本の作者自身書いてるような貧乏旅行ができるようになるには十年近くかかっています、それがない人がすんなり貧乏旅行ができますか?形だけでならまねをすることはできますでしょうが、毎日移動して見る所と言えば、交通機関の乗り換えの場所だけ、満足に食事をとる時間も予算もない、こんなもん楽しいですか。

     無理して疲れたけども楽しかったと日記に付けますか?もっと素直になりませんか、普通の人が遊びで行く海外旅行に貧乏旅行は似合いません。予算がないならないなりに余裕を持って旅行できるところへ目的地を変更すればいいのです。もし予算があったとしたら、毎日今日はいくら節約できたと家計簿を付けるような日記は付けないでください。ある分だけ支障のない範囲で使えばいいじゃないですか!

     日常生活ではうんざりするくらい節約と効率の考えで動いていますでしょう。疲れますよね!せっかく遊びに出かけた海外旅行で節約と効率の論理で動いて楽しいでしょうか。

     遊びは消費の論理しか似合いません。言い換えれば無駄遣いの考えがなければやっていけません。貧乏旅行は消費が十分できないと言うことですから、中途半端な結果しかもたらしません。遊びに行ったのによけいストレスを抱え込んでかえってくることになります。

     予算が十分無いけどもこの時期しか旅行に出れない時は仕方ありません。できる範囲で予算をけちってぎりぎりの所で出発するしかありません。結果的に貧乏旅行になります。下川氏のようにお薦めはしませんけどもそれなりに楽しく旅行することもできますでしょう。工夫に工夫を重ねていけばです。

     もし少し旅行を延期して予算をもっと増やすことができるなら(ほとんどの場合都合を付けることはできるとは思いますが)、貧乏旅行は絶対やめてください。貧乏旅行は一九七〇年代の遺物です。

     一九六〇年代の海外旅行が「無銭旅行」でくくれるとしたら一九七〇年代は「貧乏旅行」一九八〇年代は「自由旅行」でくくれます。九〇年代はまだ何と言っていいのか解りませんが「ふれあいの旅」「観光旅行でない一人旅」等でしょうかね。

     その七〇年代、ほとんどの旅行者は海外旅行は何回も出かけれる物とは想像がつきませんでした。当然最初で最後の旅行にはりきって出かけたのです。一$がまだ二百五十円〜三百円の時代です。日本で稼ぐだけ稼いでもゆったり旅行を続けるだけの資金はたまりませんでした。ヨーロッパとかアメリカで稼ぐという手もありましたが言葉も技術もない者にとってそんな良い職にあり就けるわけはありません。少しくらいかせいだとしても結果的には貧乏旅行をするしか選択の余地はありません。

     貧乏旅行の副産物として確かに現地社会にとけ込んだり外国で才能が花開いた人もいました。でも常に良いと思われることは少数です。副作用として、現地でもめ事を起こしたり本人がぼろぼろになって息絶え絶えになったり、本当に息が絶えた人もたくさんいます。
     もし少しでも予算が取れて、安全策ができるならその条件ができあがるまで旅行はちょっと待ってください。

     もし予算はあるのに貧乏旅行しなければ現地の文化にふれあえないなどと思ってる人がいたとしたら使える予算は旅行中使いきりなさい。確かに、お金の余裕を持って貧乏旅行するのはしゃれとしてはかなり高度の物ですが、反面すごくいやらしいきざな物でもあるのです。

     「長期旅行者の格好でちょっとしたほてるに泊まったらボーイもリセプションの係員も見下したような態度を見せ本当に不愉快だった、カードがないと言うことで前金三百$もとられてしまった。でもチェックインした後で服を着替え、チェックインの時ださなかったアメックスのゴールドカードを出して部屋をかえるように言ったところとたんに態度が変わった。こういう建て前と本音の経験は貧乏旅行でなければ体験できないことです。」(この部分下川氏の本の中の一説ではありません)

     「あ、そう」て感じです。建て前と本音などと大上段にかぶって言うべき事でもありません。むしろあなたが場違いな服装をしてきてたのが、その場にあった服装になっただけの話で、ちょっと身の初対面の人は服装で判断されると言う事実を体験したに過ぎないのです。

     しかも、突っかかっている相手はホテルのスタッフで決してこの人達は貧乏の対極にいて遊んで暮らせる人達ではありません。こう言うのをいやらしい感覚というのです。もっと高度の事をしたければ、ゴールドカードさえ必要なく、顔パスで一カ月以上五つ星のホテルのスイートに滞在できる人にしゃれで突っかかってみることです通用すればあなたは本物です。

     ファッションで貧乏旅行をしてる限りあなたも、旅行中に会う人もそれなりの上辺だけの接点しか持ちえません。七〇年代の旅行はほとんどの人がしたくはなかったけどの予算がないので結局なってしまった貧乏旅行でした。そしてここんところは絶対に誤解しないで欲しいのですが、貧乏旅行をしたからタフになり現地にとけ込んだりしたわけではないのです。

     一回切りの外国旅行だと思ったからなるべく長く多くの場所を旅行したかった、でも予算がそんなには取れなかった(つまり手持ちのお金が多くなかったので)、一日当たり使えるお金は大変少ない物になる、要するに貧乏旅行といわれる状態になる。ここで一番重要なのはなるべく長く(つまり時間をかけて)多くの場所を旅行したからタフになりいろいろの物を見る目かできあがって面白い人になっていくのであって、ここに貧乏旅行でお金を使わなかったからと言う理由はこれっぽっちも入ってきません。

     むしろ貧乏なことは、海外旅行にとってはすごくハンディになってきます。お金がなければ多くの場所を旅行できません、長く滞在できません、その国の文化の大きな割合を占める料理を楽しむ金も暇も体力もなくなります。

     七〇年代ストックホルムのカフェテラス「ABC」でウェイターのアルバイトをしたのは、単純に旅行のためのお金を稼ぐためであって現地の人の素顔を知るためではありません。手持ちの金が十分あればあるバイトなどしないでもっと旅行をしたかったです。第一、旅行するために海外に来たんですから。アルバイトをしにストックホルムまで来たのではありません。

     それなのに、「十二万円で世界を歩く」は金をかけない旅でなければ見えない物がある!

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