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トラベルメイトトラベルメイト95

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「トラベルメイト95」
  1. 【「日本人は」、あるいは「それに比べ日本人は」。】

     私たちがこの言葉を言うときほとんど否定する言葉が後に続きます。例えばちょっと前にベストセラーになった「清貧の思想」、のっけから前書きで出てきます。
    ちょっと引用させて貰いますと。

     いま国外旅行をすると(コクガイ、普通海外旅行と言いませんか?)どの国でも日本及び日本人に対する関心が高いように感じられる。むろん理由の第一は、クルマ、電気機器、エレクトロニクス、時計、カメラなど、日本製品の大量進出にあるだろう。日本が非常に高度な工業技術と生産性とを持つことはこれらの製品で解るが、これを作った日本及び日本人とはいったいいかなるものか、物は見えても人間の顔が見えないと言うのが、関心を高める理由になっているようである。・・・・・

     理由の第二は、しかしそれと相反するもので、逆に日本人の大量の海外渡航に由来するもののようである。史上かってなかったほどの数の日本人ツーリストが各地各国に出かけるし、また企業の長期滞在者の数も少なくない。彼らの行動をじかに見て「これが日本人か?」と言う疑問を抱く。その疑問は概して否定的な性質のものだが、それもまた日本及び日本人への関心を高める理由になっているのは皮肉である。日本人とはただホモ・ファーベル(物を作る人)であって、物を作って売るだけの物なのか、それ以外の文化を持たないのか、というわけだ。・・・・・

     私は話を求められるたびにいつも「日本文化の一側面」という話をすることに決めてきた。内容はだいたい日本の古典を引きながら、日本には物作りとか金儲けとか、現世の風紀や栄達を追求する物ばかりでなく、それ以外にひたすら心の世界を重んじる文化の伝統がある。ワーズワースの「低く暮らし、高く思う」と言う詩句のように、現世での生存は能うかぎり簡素にして心を風雅の世界に遊ばせることを、人間としての最も高尚な生き方とする文化の伝統があったのだ。それはいまの日本と日本人を見ていてはあまり感じられないかもしれないが、私はそれこそが日本の最も誇りうる文化であると信じる。今もその伝統−−清貧を尊ぶ思想と言っていい−−はわれわれの中にあって、物質万能の風潮に対抗している。それは現代の日本の主たる潮流ではないからあえて「一側面」と遠慮しておくが、実は私はこれこそが日本文化の精髄だと信じているのだと、古典の詩歌を引きつつ、私の「清貧の伝統」と考えるところを話してきたのだった。

     ざっとこんな風に著者の中野孝次氏は言います。年輩の方の考えはだいたいこんな物かなと言う気はします。

     要約しますと、海外では日本または日本人に対する関心が高いが、第一の理由は日本製品の大量進出そしてそれらを作った国と人への興味、第二の理由は日本人の大量の海外渡航の行動を見て今までのイメージと違う日本人なのでなんでと関心を持つこの二つがある。

     でこの関心の高さのためよく日本と日本人についての質問を受ける。その都度「日本文化の一側面」という話をしてきた。それは日本には物作りとか金儲けとか、世の中の名誉を追求する者ばかりでなく、心の世界を一番に考える文化がある。今の日本人には少ないけれども、これこそが日本の最も誇りうる文化である。この説明のため、古典の詩歌を参考にして自分の考えを話してきた。それを私は「清貧の伝統」と呼ぶ。

     これで良いんでしょうか、もし違う理解していたらごめんなさい、でもこれ以上分かりやすく簡潔には出来ないような気もしますが。まあこれで良いとして話を進めます。

     一口で言ってしまえば、日本の誇りうる「清貧」を忘れて「製品(日本製です)」ばかりを作ってもの作りと金儲けばかりをしてきたから日本と日本人は悪く言われる。今の日本人ではなく、「清貧」を知っている私は、昔には心を重んじる伝統の考えを持った日本人がいたことを古典から引用して外国の人に説明をしている。私が説明しているから、今の日本または日本人はよくはないけど昔はきちんとした考えがあって、すばらしい日本人がいたと言うことを外国人に理解してもらえている。と、こう言うことでしょうねたぶん。

     彼に限らずほとんどのこのての本は同じパターンです。日本は経済力と工業力で豊かになり目立つようになったけれども、決してよくは言われていない。それは豊かにはなったけれども心が豊かになっていないので嫌われるのだ。

     わたしどもからすれば、何故自分の国籍を表す言葉の後にほぼ百%否定する言葉がつかねばならないのでしょうか理解できません。最初から所詮日本人はと思ったが最後旅行者の自分自身はぶっとんでしまいます。本当に外国で皆日本人は受け入れられていないのでしょうか。反省しなければいけないことばかりなのでしょうか。

     清貧の思想には前書きの部分から現在の状況(あくまで彼が感じた状況です私たちは一般的な物とは思いませんが)を否定する後ろ向きの考えが書かれています。通常文化は食うや食わずの水準の世界に発達しません。物作りとか金儲けをする人がいてその世界の経済が発達して余裕が出来ると多種多様な文化が花咲きます。ルネッサンスもそうですし、ヨーロッパの近代もそうです。元禄時代も安土桃山時代もそうです。まず経済の発展があってから文化なのです。逆は絶対にあり得ません。

     ある国あるいは地域が何らかの原因で経済発展を始めます。最初は常にパワフルな発展を幾分かの混乱が混ざったまま遂げます。最初は一部の人だけだった富の配分が他の部分にも浸透し始めます。社会全体が底上げされ余裕が生まれます。ここから文化が花咲始めるのです。

     富が集中するところへは人も物も情報も集中し始めます、それと少し遅れて外へ出ていく人と情報も多くなります。余裕があって人も物も集中する、外からも中からも情報の交流は多い、まさしく文化の花が開いたときです。この時は残念ながら経済発展はピークをもう過ぎています。

     そして経済発展をした原因とほぼ同じ理由で、経済がダメになっていきます。文化はそれにつれてどんどん下降線をたどるかというとそうでもありません、惰性でまだまだ上昇を続ける時もありますし、社会が下降線をたどるときに必ず出る腐敗物を栄養にしてさらに発展をします。(元々文化は社会の腐敗物そのものかもしれませんもっと良い言い方をすれば社会が醸造した物かもしれません)

     次に発展するところへ、文化のパワーは流れそこでまた花が開きます。ピークを過ぎた地域の文化は生命を失いその痕跡は、博物館とか美術館、大学に保存され、舞台とか演劇歌などは高級芸術(大衆芸術の対として)として受け継がれます。一言で言えばフリーズドライの状態で保存されるのです。これらは栄養はないわけでもないし、それなりの物なのですが再び生の生命力をえるためには発展中の地域に持っていくか、同じ場所でもう一度発展がなければ生の味は再現されません。

     こう言うことをふまえますといかに「清貧の思想」が、後ろ向きの自虐的な生命力のない考えなのかよく解ります。何々「現世の生存は能う限り簡素にして心を風雅の世界に遊ばせることを、人間としての最も高尚な生き方とする文化の伝統があったのだ。」。

     当たり前のことです、食う心配なしで毎日遊んで暮らせたら最高です。日本に限らずどの世界だって最高の生活でしょう。でもどこの世界でも、「現世の生存を可能な限り簡素に」するには大変なハードルが待ち構えています。子供がいる人はどうするの、半分ぼけた親がいたらどうするの、職場の人間関係が最悪ならどうするの、何かのしがらみを皆が持っています。このしがらみを全部整理して簡素な生活にはいるには大変なコストと時間がかかります。全部を投げ捨てて簡素な生存にはいることは可能ですが、今までのつながりを全部捨てたらものすごく大きなトラブルが発生することは目に見えて解ってます。簡素で静かな生活など出来るはずがありません。

     最初から独身で妻も恋人もいなくてひっそりと暮らしている人はどうでしょう。あるいは夫も恋人もと言い換えても良いでしょう。世の中大部分はハイリスクハイリターン、ノーリスクノーリターンです。時間をとってゆっくり生きるにはノーリスクの仕事をせねばなりません。リターンは本当に社会生活に最低限の物しかありません。心を豊かにする、文化とか芸術は金食い虫です。蓄えのない社会生活に最低限の物しかない人は、文化に触れることさえ出来ないでしょう。

     生存を簡素にすることは誰にだって簡単に出来ますが、それと同時に心を風雅の世界に遊ばせる事は不可能です。

     例外はあります、ものすごく普通の人と違った才能の持ち主ならどんな状況でも誰かがサポートしてくれて何とかなることはあるかもしれません。あるいは自分自身は普通のただの人であっても、近い親戚に学者、医者、文化人等が沢山いてうまれながらに文化が格安に原価で手に入る人も何とか出来ますでしょう。でもそうでない人の方が多いでしょう、日本人という枠で見た場合ですが。

     彼中野氏は「日本人」と言う言葉の使い方も巧妙です。一般的に「よい」「悪い」の判断の入らない日本人の場合は「自分も含まれています」、否定的な「日本人」の時にはいつのまにか彼は日本人の中にはいません。そして肯定的な「日本人」−物質万能の風潮に対抗する−等にはするっと入り込んでメンバーになって一番前にいます。

     おい、おい、そういう狡っこい人は日本人に限らずどの世界でもコウモリさんと呼ばれたり、狐さんと呼ばれたりして嫌われるよ。心を風雅の世界に遊ばせることは機を見てどの陣営につくか瞬時に判断することなのでしょうか。

     こういう話飽きてきましたか、でももう少しつきあってください。「清貧の思想」の一番スタートで重要なと思える部分が、百三十四ページの十六章から出てきます。それはこんな具合です。

     百三十五ページの中頃から「EC圏だとか東南アジアに旅行をするたびに日本と日本人についての批判を聞かされることがあまりにも多かった、それも悪口を聞かされることがあまりにも多かったからである。これらの国々では、旧東欧圏と違って大勢のビジネスマンや旅行者が出かけているから、かの地の人はそれを見、その言動に腹を立て、私にまで抗議するのである。」

     ここでちょっと一息、クイズを出します。この中の日本人とか、旅行者でナカノ氏自身が含まれていると思える部分を、赤のマーカーで塗りつぶしなさい。含まれていないと思える部分を緑のマーカーで塗りなさい。出来ましたか、出来たら次に進みましょう。

     ナカノ氏が受けたと称する文句が出てきます。
     「日本は輸出大国だ等と誇って外国市場を荒らすだけで、自国の利益しか考えない。確かに日本製品は、自動車、電気製品、エレクトロニクス、時計、カメラ、何でも優秀で安い。それは認めるが、良い物を安く売って何が悪いという態度が露骨で、少しもこちらの事情への配慮がない。これではとても共存できぬ。このままでは日本は世界の嫌われ者になるだけだろう。」

     よく新聞の記事とか投書欄に出てくる意見です。自国の利益しか考えない?それがなんで悪いのでしょう。ビジネスはまず自分の利益を出すのが第一の目的です。それが悪いのならビジネスは成り立ちません。まず自分の利益です、そして余裕が出来れば、何パーセントかはバックが出来るでしょう。

     百%自分の利益しか考えないことは、植民地にでも相手をしない限り不可能です。少なくとも現場では、お互いゆずれる範囲で共存共栄がはかられ取ったり取られたりの調整があって経済は進んでいきます。もし自国の利益しか考えない政府の役人とか、会社の経営者がいたとしたら彼らはきっと失敗します。

     良い物を安く売って何が悪いの、じゃあ共存するためには悪い物を高く売ればいい訳なんでしょうかそれこそ日本は嫌われ者になりますし、結局お互い損をしますよ。

     中野さん、あなたも物書きの端くれなら世界一般に自国の利益でなく相手の利益を一番に考えて貿易とか現地工場を出していった国がどこなのか教えていただきたいものです。日本だけが何故出来ないことをしなければいけないのでしょう。
     本当に外国市場を荒らすだけで良いことは一つもしてないのでしょうか。確かに第二次大戦前は武力で東南アジアに出かけていったことは事実です。でも最近の進出は、商品の品質と価格で勝負してるはずです。(百%クリーンとは言いません。政治的な駆け引きで商品を押し込むこともあったでしょう、それはどこの国でもにたような物ですから日本だけが特に悪いわけではありません。)

     イギリスの綿製品がインドの市場を押さえていった経由はご承知でしょうか。イギリスの機械織りの品質の悪い綿製品をインドに売るために、北インドの綿製品のマニファクチャーを徹底的に破壊し尽くした歴史がありますよね、インドの平原は機織り職人の手首の骨で埋まってると言う風なことを言った人もいるくらいすごかったようですよ。イギリスってフェアーな輸出を心がけたのでしょうか。イギリスは世界の嫌われ者になりました?

     圧倒的なパワーを持った一番の国へは、嫌う感覚は他国の人にはあまり出来ません。回りにいればおこぼれに預かれますしね。批判は強い国へ向かうより、三番手くらいのまだ強力ではなく、ドジもよく踏む国に向かい易くなります。こういう感覚の批判ではないだろうかと思いますが。

     次は「日本人はビジネスマンも旅行者もあって話をすると金の話しかしない。いったい彼らには金儲け以外に関心がないのか。政治、音楽、国際関係、哲学、民族問題、歴史などについては彼らは話すことが出来ないかのようだ。まるで金のあるなしだけが人間の価値を決めると信じているかのようだ。」

     これってそうですか、私たち二十四人のグループのメンバーに旅行先で金の話しかしないのと聞いてみましたけども。「高いぞ、もっとまけろ」と言う意味での金の話はしょっちゅうしてるけども儲ける意味でのお金の話はしてないぜ、ということです、この旅行者はあなたの判断基準からすればどんな人達なんでしょう。

     ビジネスで行ってる人にお金の話をするなと言うのは非常に酷です。金を儲けに海外に行ってるわけですから。

     後、政治、音楽、国際関係、哲学、民族問題、歴史等について話すことが出来ないかのようだとのことですが、この中で何のわだかまりの無くはなせるのは音楽くらいで、他の話はお互いよほど何年もつきあった上でないとはなせないような微妙な物じゃありませんか。そんなもん初対面で話してどうすんでしょうね。

     本当にこんな事現地の人が、中野さんに文句を言ったのでしょうか?もう一つついでに、日本人のビジネスマンより、韓国のビジネスマンとかインドのビジネスマンの方がもっとお金にシビアーなように思いますがこの二つの国もダメなんでしょうか。

     さてクイズです。ここに出てくる日本人と旅行者には、ナカノ氏は含まれるのでしょうか。含まれると思う人は赤、含まれないと思う人は緑のマーカーでチェックしてください。

     「若い女までが大金を持ってきてブランド商品を買いまくる。土地の歴史とか文化への関心をほとんど示さない。自分たちの流儀で振る舞い、騒々しく、みっともない。日本の若者は皆あんな風に自分のことしか考えないエゴイストなのか。」

     若い女は大金を持ってはいけないんでしょうか。自分の持ってきたお金で買い物をして何が悪いのでしょう。自分たちの流儀で振る舞うことは悪いことではないでしょう、限度はあるにせよ人の目をきにしておどおどするより数倍ましです。騒がしく自分の流儀で振る舞う連中にあんたらうるさいよもうちょっと礼儀を知れよ、おとなしくさせることは出来ても、人の目ばかり気にしておどおどしてる人にもっと明るくはっきりしなと意見してもスグには明るくはなれないでしょう。

     騒々しくみっともないのはどの国の若者も一緒です。日本だけではありません。

     「日本人で自分の哲学を持ち、自分のライフスタイルに自信を持って、何事についても一見識あるような人をめったに見たことがない。パーティで土地の人間と対等にいろんな話の出来る者も少ない。自国の歴史についても無知だ。」

     普通の旅行者にこんな人います?どこの国から来た人でも多くはないですよ。学者が開く学会などのため参加している人達なら、喋るだけは出来るでしょう。その通り行動できるかは別として、人に意見を喋るのが商売の人達ですから。

     旅行に来てまで自分のライフスタイルなどと緊張して、何事についても一見識なんて肩を怒らせていては面白くありません。それよりうんと素直になって新しいことを吸収した方がよくはありませんか。素直になって吸収することは同時に自信が無くなっていく過程なんですが、下手な自信があると素直にはなれません。

     パーティで土地の人間と対等にですって!自分のテリトリーでないところで対等になど渡り合えませんよ。自国の歴史についても無知だ!いつも常に否定語がつくような日本と日本人の歴史を学ぶ気になりますか!

     中野さん、あなたは、前書きで現代の日本の主たる潮流は物質万能の風潮で遺憾であるとおっしゃっていたではないですか。そんな日本の文化を学んで何か役に立つのですか?「だから昔のよかったころの日本文化の一側面を学べば」と言ってるではないかと反論がでそうですね。でもそのころの日本の文化には、今普通に旅行に出て言ってる人達のような階層は一つも発生してませんでしたが。西行の時代にアルバイト学生がいましたか?芭蕉の時代に、グッチを買いに出かける若い女までがいましたでしょうか?

     今が一番大切なのに、旬の野菜でなく、フリーズドライされた粉末野菜をお湯で戻して三分間待って食べろと言うことでしょうか?

     ここでまたクイズです。ここの文章で出てくる「日本人で自分の哲学を持ち」の日本人には、中野さんは含まれるのでしょうか、以前のごとくマーカーで赤か緑に塗ってください。
     「貧しい国の人間に対して日本人はなんて傲慢なんだ。自分は富んでいるからどんなことをしても許されると思っているのか」
     これって日本人だけではないでしょう、どこの国でも貧しさと貧しい人は歓迎されません。貧しい人の世界では他の階層の世界より特に貧しいことに許容度が少ないでしょう。それが余裕が無いって事なんです。

     貧しいあなたに美しい娘かハンサムな息子がいてお金持ちのぼんぼんかお金持ちのお嬢さんが求婚したら、そしてそれぞれに近所の貧しい幼なじみがいてそちらとも仲がいいとしたら、あなたはどっちを薦めますあるいは強制します?ドラマのようにぼんぼんとかお嬢さんが極端に性格が悪いような現実離れした設定はないとしたら。

     自分は富んでいるからどんなことをしても良いと実際に行動したのは、西ヨーロッパ諸国の人達ではなかったでしょうか。もちろん、アジアにもそういう行動をした国もあったし、日本もそうだった時期もあったし今後もそういう時期が来るかも知れませんが、いわゆる欧米諸国に比べれば、悪さと巧妙さでは大人と子供くらいの違いがあるでしょう。(他の国もやってるから日本がやったことも悪くはないとは言ってませんよ、ここんところ間違えないように)

     「不愉快だからこれくらいでやめるが、そういう意見を聞かされるたびに私は情けなくなり、彼らの言い分をある面では認めざる負えないのが悔しく、いや、現在はそういうタイプの日本人がいるかも知れないが、日本人は昔からそんな人間ばかりじゃないのだ、日本人には全くそれとは違う面があるのだ、と話してきたのが−−日本文化の一側面−−だったのである。」

     ここでまたまたしつこく、クイズです。ここに出てくる日本人に中野さんが含まれている日本人と含まれてない日本人をマーカーで、赤または緑に塗り分けてください。

     さて私たちも疲れてきました、本当に日本人が旅行に出かけると周りの人から、特にEC圏と東南アジアの人に毎日抗議されるのでしょうか。それは例えば、反日行動がよくあるタイなどでは、空港に到着したばかりの出口で何の名声もない一般の人に何人かの人がつかつか寄ってきて「あなたはどこへ行くのか、買い物が目的のツアーならここからとっととかえりなさい」とでも言われるのでしょうか。私に関してはこんな抗議を受けたとか議論をしたことはありません。他の人はどうでしょう。この本に関わってくれた二十四人の人に聞きました。

     ほとんどの人が、そんなことは気にもしなかったし議論もしなかったし、面と向かって言われたこともないと言ってます。確かに日本への何らかの抗議運動があった現場へその時行って日本についてどう思うかと聞けば色々言われるでしょう。議題が日本の経済進出についてとか、日本人旅行者の売春ツアーについて等のシンポジュームであれば辛辣な意見ががんがん出てくるでしょう、そうでない場面ではあり得ないケースです。(確かにライター等が取材で海外に行ったときは相手からリアクションがあるようですが、それは取材という行動だからで普通の人が普通に旅行してるときはあまり聞きません)

     本当に彼はここに書いてあるような意見をかの地の人から抗議されたのでしょうか。どんな場面で、一日何回くらいどんな人に。「私にまで、抗議が来た」とありますから、私以外の清貧の思想を知らない一般の人はもう空港に着いてから観光中、食事の時までも抗議をされているんでしょう、きっと。

     通常皆さんが旅行してるとき会う人達は、商売で出会う人(航空会社の人、旅行会社の人、お土産物屋の親父、ホテルの係員等々)友人、旅行中友人になった人、通りすがりの旅行者同士、国籍の如何を問わず普通では政治的な話とか、歴史などの話はあまりしません。文化的な物は少しするかも知れません、ソフトな範囲では。この様な話題は突き詰めていくと必ず誰かの国は過去に悪いことをしてる、あの歴史上の人物は、あなたの国では英雄でも私の国では極悪非道の悪人になっている、と言う話につながっていって結論のでない大喧嘩になります。旅行者は所詮通りすがりの人です。迎える人にとって四六時中顔を合わせる人ではありません。そういう人へ現地の人が面と向かって「私にまで、抗議が来た」と言うくらい苦情をいいますでしょうか?

     そんな常識のない人が、かの地には多いのでしょうか!かえってかの地の人は無遠慮で常識を知らない人が多いと言うことになりませんか。

     私たちはこの点を持って、たぶん清貧の思想の十六章の部分(この本はここからスタートしたと言っても良いくらい中心の部分です)は、日本の新聞雑誌の投書欄とかよく載るステレオタイプの記事の寄せ集めで自分の考えを述べた物でなんらの事実からの意見では無かったと想像します。(人によっては、他人の文句ばかり一身に集ってしまう、奇特な人もいますからたぶんとしか言えませんが)

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