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入門講座理論編ー(27)
もしあなたがマニアックにどこかの国のことを調べ上げどうしてもより多くのことを知りたいという場合はそれはそれで良い旅できると思います。例えばそのきっかけが中学時代の地理の授業で興味持ったことがはじめだったり、自分の趣味を深く突き詰めていくとその国に何年か暮らさなくてはならない必要性がでてきたり。
問題なのは、「旅行」それ自体が目的化して「旅」という言葉で語られ、その上に本当の自分とか、世界各国の文化とか、今までと違う国際人の自分とか、すごく口当たりの良いイメージがトッピングされることです。
そしてそれは安ければ安いだけ、費用をかけなければかけないだけ、できたらなんでも一人でやれればやれるだけ、よしとされます。「旅行」は、ほとんど大部分の人にとって「観光」であり、「観光」なのに「トライアスロンレース」の様なオールマイティの才能を要求されています。
今までの旅行関連の本は、「当てもない旅」「無目的の旅」「自由な旅」「一人旅」「貧乏旅行」「無銭旅行」「ふれあいの旅」「自分探しの旅」「癒しの旅」等をベースにしています。
これらの考えを使って語られるときは、2,3種類のものが必ずミックスされます。つまり「当てもない、自由な、一人の、貧乏旅行」とか「無目的な、ふれあいの、自分探しの旅」とかです。
これらのイメージを満たす旅を私はこういう風にしてきたとか、こう工夫すればそれが簡単に達成できるとかの文章が続くわけです。典型的なのが古くは「下川祐治」次には「蔵前仁一」最近では「小林紀晴」。ま、この中では「蔵前仁一」が少し現実派に軌道修正始めたような気がします。
(この3人の中で彼だけが独自に自分の会社やり始めてますので、それなりの体験積んできて変わっていくと思います。零細企業の親父は資金繰りから人の手配もマネージメントしなければなりませんし、それに格好付けて八方美人続けていくことできません。今後の文章にはそれなりの現実感のある迫力がでてくるように思います。会社勤め、フリーでは人を使い給料を払うことありません。人を使うことは、人生180度回転した立場に立つことですし。)
ミックスされたイメージ、初心者にも何の問題ないように思えますが、とんでもない話です。
「当てもない自由な」、これはとりあえず何かしなくてはいけないとか強制するものがない状態です。「一人の」知り合いとか友人がいない「貧乏旅行」お金持ってないかつかつのということです。
この状態で、初心者がストレスなしでのーんびり旅行できると思われますか?
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