第5回 遥かなる大草原 (2001/12/28)
誰でも年をとる。年々体力や運動能力は落ち、回復することはない。何かをきっかけに急激に落ち込むことがある。中年にはいったころの下がり具合はそんなに大きくはないから、若いころの記憶とあいまって、また戻ってくるような期待が入り混じって葛藤をおこす。
自分が体力の低下を思い知らされたのは10年前にチベットを旅行し、激しい高山病にかかったときだった。高山病といってもほとんどの人は頭が痛くなる程度の認識しかないが、そのすさまじさや恐ろしさは体験してみないとわからないだろう。常に死ととなりあわせだ。日本で本当の高山病を体験することはできない。せいぜい高度は4000メートルも満たないし、少し移動すればすぐに高度はさがる。
チベットは、インドのガンガー、タイのメコン、中国の黄河の源流をたたえる世界最大の高原地帯だ。標高の低いラサでも3700メートル、通常は4000から5000メートル。酸素は海岸地帯の3分の1。直射日光は強烈で肌をさらすことはできない。気温計で28度あっても体感は10度もない。極度の感想。通常の感覚が通用しない。
現在ではだいぶ事情が違うだろうが、当時まだチベットは旅行者に開かれてまもないころで、ネパールでツアーに参加してグループビザを取得する必要があった。カトマンズからラサまで8日の車での行軍。
帰りはラサからカトマンズまで飛行機。この航路はエベレストなとヒマラヤのいくつもの主峰を一望することのできる世界で最もすばらしい航空路のひとつだ。
ネパールから出発して高度は一日で3000メートルほど一気に上がる。3日目にはチベット高原に達し、それ以降は4000から5000メートル地帯をゆく。行程の最高高度5200メートル。最終目的地ラサは最も高度が低くて3800メートル。
2日目ころから体の変調がはじまった。あちこちに崖崩れがあり、歩いて迂回して車をのりつがなければならないが、酸素が薄くて呼吸が苦しく機敏に動けない。喉ばかり渇きやたら水を飲む。これが後でひどいことになった。頭痛がはじまり、鎮痛剤を飲むがまったく効かないどころかますますひどくなった。
日に日に宿舎の食事は粗末になってきた。もともと調達できる食料が限られてくるのだから、しかたがない。食事がだんだんできなくなってきた。食べられたのはクラッカーだけになった。
4日目の夜、ベッドでよこになっていると何かしめっほくて臭い。そのころになるとちょっと立つにも呼吸がぜいぜいしてゆっくりとしか動作できなくなっていた。気が付いたら下痢をしていた。それでも最初はなんとか始末したが、下痢はつづいた。やっとトイレにいってするとあまり出ない。ベットに戻ると出だす。しまいにはベットじゅうが下痢で惨たんたる状態になってしまった。多量に飲んだ水が全部下痢になった。
頭痛、呼吸困難、吐き気、下痢に精神的なダメージが加わり、幻聴が聞こえるようなった。誰かが呼んでいる、バイクがとおり過ぎる、激しい耳鳴りがする。視覚は色が強調されるが幻覚はない。いよいよ起き上がることもできない状態となった。高山病だ。
高山病は高度を下げれば緩和する。しかしヒマラヤ高原のど真中では低いところはない。逃げる方法はないのだ。このまま旅をつづけラサまでいくしか選択肢はない。ラサまでもたず死ぬかもしれないとも思った。水分の摂取を最小限に控え、クラッカーで栄養を補給した。一日中、車の座席に横になって移動。
やがて症状の悪化はおさまり状態は安定してきた。ラサに近づき少し、高度がさがると元気がでてきた。座席にも座れるようになり、景色を楽しむ余裕もでてきた。ラサのホリディインに到着して風呂に入れたときに生きていることをしみじみ実感した。
同じ旅をしていても誰でもが同じように高山病になるわけではない。当時5歳だった息子は5000メートルのところで走りまわっていた。
ツアーの他の仲間5人は軽い頭痛、吐き気程度だったようだ。高山病はウイルス疾患や内臓障害のような病ではない。外的環境に体が順応しないで起こる。好き好んで病気になる人はいない。それだけに高山病という体験は貴重な経験といえる。
その後、チベットでの高山病の後遺症のようなかたちで、体ががたがたになりはじめた。中年から初老への体の変化もあいまって若いころの体はまぼろしになった。
いま沖縄の病院のベッドで体を休めているのも、チベットからつづく旅のようにも思う。だがここには酸素吸入もあり、心臓の一鼓動に対してもそれなりの措置が期待できる。食事もおいしい。このような環境を与えられなければ生き長らえない今の自分を思うと、チベットはさらに遥かに夢のように感じられる。
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