エレキと深夜喫茶がブーム
1965年・昭和40年
オリンピック景気に沸いた前年にひきかえ、この年は暗かった。好況の後の反動による不景気はすでに予想されていたが、以外に早くやってきた。戦後最大といわれた山陽特殊鋼の倒産が、それを象徴するようだった。池田内閣の退陣によって、高度成長の時代は終わったのだろうか。不安定な要素が国内に充満し、エレキギターや深夜喫茶が話題になった。そんな中で、朝永振一郎東京教育大学教授がノーベル賞を受けたのが、唯一の救いだった。
今では海外旅行の代名詞ともなっているパッケージツアー。その代表的なブランドであるジャルパックが、この年の1月20日から全国一斉に発売された。このパッケージツアーが自由化の当初から今日に至るまで、海外旅行の大衆化に大きな役割を果たした。この年、「アメゴロ」という言葉が現れた。ニューヨークあたりで、何となくごろごろしている留学生や自称芸術家を指したものである。この頃すでにかなりの数のこの種の人たちが、海外に住んでいたのである。
海外渡航が自由化されて2年目。本会の活動もようやく軌道に乗り、この年には多くの仲間が海外旅行を実現させた。しかし情報や資料がまだまだ乏しく、活動の中心である例会を開くのは大変な仕事だった。とくに本会の趣旨(まだこの頃は明確なものはなかった)に添うような海外旅行の経験者を探すのに苦労した。経験者の生々しい体験が、大きな情報源だったからである。色々なコネを辿って経験者を探し、ゲストに迎えて9回の月例会を開いた。年間出席者は延べ240名に上った。本年度の登録会員は52名。
この年、日本ユース・ホステル協会が次のような2つの海外ホステリングを実施した。
[第1回ヨーロッパホステリング]7月5日〜8月19日(36日間)
全国から127名が参加、費用38万円。本会から有地君が参加。
[第2回日米交歓ホステリング](42日間)
25名が参加、費用50万円。
なお大阪ユース・ホステル協会が昭和42年の協会設立20周年を記念して、ヨーロッパホステリング[アルテナへの道]を実施することになった。
そこで本会でも色々な形でこれに協力することとした。7月末、来日中のJYH日米交歓ホステリングの一行が服部緑地ユース・ホステルに宿泊。本会会員が出向いてそのお世話をした。このような体験は、後年それぞれの会員が海外旅行をした際に大いに役立った。指谷君はその時の経験から、外国人ホステラーの受入についての意見を、JYH新聞に投稿した。
月例会活動
◆1月12日
1月例会(大阪府立体育会館会議室、以下同じ)本年度の活動について話し合い、年間計画と規約を決定。
◆2月20日
2月例会「向こう三軒ヨーロッパ」ゲスト・黒田 清氏(元読売新聞大阪本社社会部長)、参加者27名。
◆3月26日
3月例会「JYH日米交歓ホステリングに参加して」ゲスト・三島昭夫氏、参加者26名。
◆4月26日
4月例会「世界一周二千弗」ゲスト・竹本靖秀氏(青少年補導協会職員)、参加者30名。
◆5月24日
5月例会「旅行情報の交換」ゲスト・三好庸隆氏(ニューオリエントエキスプレス社員)、参加者20名。
◆6月26日
6月例会「有地君歓送会」この夏JYHヨーロッパホステリングに参加する有地太一郎君を囲んで、参加者32名。
◆7月30日
来日中の日米交歓ホステリングの米国班一行が来阪、指谷君らがそのお世話をした。
◆9月25日
9月例会「現地事情を聞く」海外渡航経験者(宇野、梅田、川村、唐沢、辻井、富田、米坂の会員7名による体験発表、参加者36名。
◆10月11日
JYH新聞大阪版で海外ホステリング[アルテナへの道]の実施要項が発表される。
◆11月2日
11月例会「海外ホステリングの研究」ゲスト須原宗二君、参加者29名。
◆12月10日
12月例会「反省会」本年度の反省や来年度の活動方針、とくに機関誌の発行について話し合った。
*本年の海外渡航会員
有地太一郎
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欧 州
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小林 和
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欧 州
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富田和巳
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欧 州
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宇野千代
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〃
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唐沢 淳
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〃
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吉崎弘子
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〃
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梅田
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〃
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須原宗二
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〃
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京森 均
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〃
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河村 弘
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ソ 連
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辻井 重
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アジア
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米坂
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〃
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