VOL.55 インド(53) カルカッタ (2) IR 94/03/17
一階の薄暗い通路を自転車をひいて入ってゆくと、耳に入るのはトーンの高い日本語ばかり。テーブルやドミトリーにいるのもほとんど日本人だ。まるでどこかの合宿に紛れ込んだような錯覚を覚える。前回泊まったときと較べると、旅行者の持ち物や服装が新しくてきれいなのがめだつ。
私は数カ月ぶりにみる日本人の集団に少々とまどいを感じていた。世界各国のツーリストが利用する宿で、日本人だけが団体のようにかたまっている光景は、少々奇異な印象を受ける。同じ外国人でも、ツーリストと情報を交換しあう白人に較べ、英語を話さない日本人はどうしても同じ国の人間と会話する時間が多くなる。その結果、同じ宿に日本人が集中するようになり、そこはやがて日本の感性や常識が煮詰まった溜まり場となってゆく。情報交換には便利で良い反面、そこはやはり日本の社会があるだけだ。日本人の旅行日程は、学生といえどもけっして長いとはいえない。自国民どうしで固まる彼らをみていると、私は目の前にある外国の異質なものにもっと目をむければよいのにと、はがゆく思うことがしばしばある。
翌日からさっそくタイ行きの準備にとりかかった。まず私達はタイ領事館へでかけ、ビザを申請した。その日には受け取れないので、もう一度でかける必要がある。用のなくなったインドの地図やガイドブックは、荷造りして日本へ送り返した。かさばって他に使い道のない輪行袋も、一緒に荷物にいれた。これで成田からどこへ帰るにしても、自分の足で走るしかない。そう思うと帰ってさっぱりした。
次に出発の日を決めて、バンコクまでのチケットを手にいれなくてはならない。パトリックの提案で、私達は二組に別れて日をずらしてバンコクにいくことにした。一つの飛行機に六台の自転車は多すぎるだろうというのが彼の意見だ。パトリック、マンフレッド組が先に行き、二日後の便で到着する私達をドムアン空港で待ち受けるという計画だ。トラブルが発生して、万一会えなかった場合はどうするか。
「その時は、僕たちはサヨナラということにことになるのかな」
私がそういうと、パトリックはちょっとおどろいた顔をして
「ノウ、僕は君達を見つけだすまで、動きつづけるよ」
といった。私はちょっとみずくさかったかなと思い少し後悔した。
バンコクまでのチケットは、その後近くのチケットショップを調べた結果、一人三七五〇ルピーで買う事になった。
ホテルパラゴンでは、ドイツ人サイクリストのクラウスとあった。大工をしていたという彼は、アジア旅行が大好きで、これまでに何度もでかけては、台湾やマレーシアを走ってきたという。小柄でどことなく妖精のような彼は、私達とのおしゃべりに夢中で、顔を合わしている間、話がとぎれることはなかった。そんな彼でも、相手が同じ白人ツーリストではおもしろくないのだろうか、マンフレッドやパトリックたちとはほとんど話をしようとしない。
私達が領事館にタイのビザを受取りにいく日、パトリックとマンフレッド、クラウスの三人は、ダムダム空港までのコースの下見にでかけた。シンガポールへ飛ぶクラウスは、私達と同じ飛行機に乗る事になったのだ。
「きょうはどうだった?」
夕方宿に戻ると、私はパトリックとマンフレッドにきいてみた。
「いや、大変だったさ。クラウスときたら歩行者と衝突してな、前のめりに転倒するしまつさ。まったく奴の乗り方はあぶないよ」
パトリックはちょうど部屋にやってきたクラウスに向かって
「いいかクラウス、ハツキと空港に行くときはとばすんじゃないぞ、わかってるか」
といって父親が子供を叱るように人差し指をふってみせた。
その夜、私達七人はホテルの屋上で夕食を作って、パーティを催した。このころ、私と葉月はカルカッタの暑さで体調を崩し、腹を下し微熱のさがらない私は食欲をなくしていた。マドラス以来ずっと体を動かしていない事も、調子を崩した原因の一つだ。楽しみにしていた北インド料理もまったく食べる気がおこらず、中華レストランの油のまわった炒め物ばかりたべていたのもよくなかった。皆で作った手作りの料理は、鉛のように重くなった体にエネルギーを吹き込んでくれた。
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