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「トラベルメイト98」
  1. 【 日本の海外旅行の歴史9 】

     前回の(8)では、次の項で「格安航空券ガイド」の実用的なやつをやるとお知らせしましたが、よく考えるとタイトルはまだ旅行史でした。で、またまたで悪いのですが軌道修正させていただいて、旅行の種類と流れを書かせていただきます。

     1964年から68年くらいまでは観光旅行はほとんどが、団体のパッケージ旅行でした。このころは団体であることはパッケージでありパッケージであることは団体であったのです。

     ちょっとわかりにくいですね、少し組み合わせを変えてみます。団体のパッケージ旅行があるということは組み合わせを変えれば個人のパッケージ旅行もあるということです。ですが、この団体でないパッケージ旅行は70年代の中盤過ぎまではほとんどありませんでした。

     予算はいくらかかってもいいというお大尽の旅行にはあり得ましたが一般的に売り出されている旅行には個人の好みで前もって手配を選択、注文を出して今で言う「自分流」のわがままを言えるツアーなんかありません。わがまま言おうにもほとんどの人がそんな知識持ち合わせてはいませんでした。

    だいたいが参加するお客さんにしても、ロンドンはこのホテル、湖水地方はこのホテルという好みなどありません。ロンドン一流ホテル宿泊、パリ一流ホテル滞在、とだけ日程が書いてあったとしても別段旅行会社も旅行者もおかしいとは思わなかった時代です。(イギリスの湖水地方へのパッケージ旅行は、このころは一般商品としてはありませんでした)

    アメリカであっても話は似たようなもので、アメリカの主要都市、有名観光地であればどこだってアメリカです。とにかく楽しむよりそこに行った事実が大変重要な時代でした。それは案外価値があったのです。

     70年代頭からはやったのが、オーガナイザーものと呼ばれる団体旅行です。今でも一般の目に触れる旅行は一般公募のもので、オーガナイザーものは表面にはでてきません。

     オーガナイザーものはどんなものかと言いますと、ほとんどの人が生活していく上で社会とのつながりが会社のみとか家庭のみという人は少ないと思います。たとえば学生なら学校以外に趣味のグループにはまっていたり、マラソンが好きだったりします。主婦ならボランティアのグループに属していたり、カルチャーセンターに通っていたりします。このそれぞれに興味を一つにするグループ向けの旅行がオーガナイザーものと呼ばれるものです。

     ただし今のようにボランティアとかマラソンのような目的が特定のものより、商売のつながりの景品的な団体旅行が非常に多かったのが70年代です。成績優秀な生命保険のセールスマンハワイ招待とか、年間売り上げ上位何店舗かの電気屋のご夫婦パリ、ロンドン8日間ご招待なんてのがありました。参加人数も数十人のものから年間数千人単位のものまでサイズはいろいろです。 各地で開かれる見本市の視察旅行、商工会議所などの研修旅行もオーガナイザーものの定番でした。

     一般公募の旅行も自由化前の「視察旅行」から発展する形でパッケージ旅行がスタートします。最初は航空会社主導で旅行のブランドが作られていきます、ジャルパック−1965年 パンナムホリデイ−1965年 オーキッドツアー−1967年(タイ航空)など。 次には大手旅行代理店主導のパッケージが次々と発表されていきます。1968年「ルック」、1969年「ジェット」1972年「マッハ」「ホリデイ」「グリーニング」。 公的なオーガナイザーが旅行会社とか航空会社、メディアと組んで仕掛けたのが「モニターツアー」これもヒットすると数千人規模の集客が見込めるものでした。

     支払方法も64年前後にはやった、「積み立て旅行プラン」から70年代にはトラベルローンに変わっていきました。「GO NOW,PAY LATTER」てやつです。

     一般公募ものとかオーガナイザーものが変わっていく中で、それらをベーシックな部分で支えてきた大きな変化があります。それは今後説明する旅のパーツの中の、一番大きな大骨の部分、そう、「航空券」です。

     国際線の運賃は当初一種類しかありませんでした。1954年になって「ツーリストクラス」が導入され、1960年「エコノミー」に名前が変わります。団体運賃が設定されたのは、1965年ヨーロッパ方面からです。「GV10」といいまして10人以上で団体運賃が適用になることになりました。1968年には,USA行き「GV15」69年にはヨーロッパ行き「バルク運賃(40人以上)」、70年USA行き「バルク運賃」設定。

     70年〜75年は、定期便で不足する分チャーター便がよく企画されました。学生が休みになる春夏の季節とか、オーガナイザーが大きすぎて定期便では運びきれないときなどです。このとき集まらなかった便の席は出発一週間前には二束三文でたたき売りされました。これが俗に言う「キャンセルシート」です。グアム往復最初はエアオンで7万円だったのが、出発4日前には2万円とか1.5万円になるわけです。バリ島、デンパサール往復2万円なんてのもありました。いい時代でした。 

     個人旅行に関しては、64年からは特別の人でなくとも海外に出かけられるようにはなりましたが、そのための航空券はそうは安くなかったのです。海外に安くでるには、シベリア周りか、MM汽船の南回りの客船に乗るかくらいしか定期便はありませんでした。そして幸運なら貨客船といって貨物か中心ではあるけどお客も少しは乗せてくれる船を見つけるしかありません。お金がないので、ボーイとして船で雇ってくれないかという話はよくあったことです。実際に雇ってもらえたかどうかは別ですが。 1969年頃より、日本国際学生連盟(JISU)という組織が割り引き航空券を売り始めます。確かエジプト航空のヨーロッパ行きだったように思います。

     サーやっと格安航空券のルーツまできました。次の項で航空券の歴史にはいります。なかなか話が進みませんが、まあ、もうちょっとの辛抱です。 

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